広島県呉市の大和ミュージアムを訪れ、戦争について考えさせられた

みなさん。こんにちは。now3のアドレスでブログを更新している大東市の税理士・社労士の今西 学です。

先週末、広島市の呉に行ってきました。観光というよりも、用事があって行ったのですが、2~3時間ぐらいですが、観光もしてきました。(その用事についてはまたの機会に、述べてみたいと思います。)

広島市内は、2度ほど訪問したことがありましたが、広島駅からJRで30分余りの呉へは私にとって初めての訪問でした。

呉市の観光施設で一番有名なのは、大和ミュージアムです。そのメインの展示は、呉市で建造された戦艦大和を1/10サイズで復元した「1/10戦艦大和」です。私も見学しましので、その際勉強になったことについて本日はお話しします。

以前、広島市内の原爆ドームを訪れたときは、戦争の悲惨さをすごくかみしめました。今回は、日本海軍の敗戦へ向けての歴史を知ることで、日本が敗戦へ向けて歩んでいく過程について考えさせられました。

JRの呉駅から徒歩5分余り。海に面した場所に大和ニュージアムは位置しています。時間は、1時間余りしかなく、1階、2階の展示しか見る時間はありませんでした。よって3階の船をつくる技術などの展示は見れていないのですが、それでも楽しめるミュージアムでした。

なんと言ってもその目玉の展示物は、先ほども述べた1/10戦艦大和です。元々が全長263メートルの戦艦だったらしく、1/10といっても約26メートルゆえ、そこそこのスケールがありました。

出来るだけ精緻に再現されたものらしく、細かい部分まで丁寧に作られていました。これは見る価値ありました。

メインである一階の展示物は、戦艦大和の建造からその沈没する最後までの歴史を扱ったものが中心でした。 また、ゼロ戦などの展示物も置かれていました。

以下、ミュージアムを見学し、新しく知ったこと、考えたことです。

(1)呉市は軍港で、かつ戦艦等の建造を行う軍需工場などもあった街でした。

我々関西に住んでいる人間は、かつての軍港といえば、京都の舞鶴を思い起こす人が多いかもしれません。だが、呉も明治17年に第二海軍区軍港となった軍港でありました。

そして、その周辺に海軍の軍需工場なども設置され、戦前には多くの艦船がつくられ、その一つが戦艦大和であるとのことでした。そう戦艦大和は呉でつくられ、呉で停泊していることが多かったようです。

今現在の呉は、静かな街でしたが、軍港とされていた時代は、軍人や船を作る技術者・作業員なども集まってくる賑やかな街だったそうです。

路面電車も明治42年には開業するなど、最盛期の昭和18年には、人口40万人を超える賑やかな街であったとのことです。(こちらの資料を参考)

終戦間近には、軍港に停泊している戦艦等も含めて、軍港であった呉市は米国による空襲を受け、呉も軍港としての機能を失って終戦を迎えたとのことです。

(2)アメリカとの圧倒的な戦力差・技術力の差

太平洋戦争で戦ったアメリカとの戦力差は、特に終戦の頃は歴然としていたようです。

海軍の航空部隊である熟練パイロットは、戦争が進むにつれて、戦死してしまい、養成に時間がかかる熟練パイロットはいなくなってしまい、まともに空の戦いも出来なくなってしまったこと。

また石油などの燃料面でも制約があったこと。飛行機本体も、米国ほど量産できなかったこと、軽くするため防御面をおろそかにした設計だったこと。

そのような状況の中で、まだ未熟な飛行機乗務員を特攻隊として送り出したこと。などなど解説等を聞きながら知りました。

終戦間近には、海軍の戦艦、空母など大型の船はほとんど壊滅状態であったとのことです。(戦艦は長門だけが動ける状態で生き残ったが、それでも中破しており、なんとか動かせる状態であったこと。)

太平洋戦争に負けたという事実は知っているのですが、それがどのような作戦ミスで敗戦を重ねたのか等は、知らない自分に気付きました。負けた話は悲惨であるし、なるべく聞きたくない気持ちもあります。

でも今回の展示を見つつ、歴史を風化させないためにも、太平洋戦争がどうのように戦われ、なぜ負けてしまったのか?どのような戦略ミスしたのか?という点も、しっかりと勉強したい気もしました。

(3)戦艦大和の建造から沈没まで

戦艦大和は、日本海軍の秘密兵器として極秘に建造されたこと。太平洋戦争に突入後は、その46センチ砲という武器にもかかわらず、ほとんど実戦では力を発揮出来ずにいたこと。

そして最後は、約3,000人の乗務員を乗せて片道燃料だけで沖縄を目指し航行中に、アメリカの航空機による魚雷、爆撃にあい昭和20年4月6日に沈没。約270名は生存者として救出されたが、その他の方は戦死されたとのことです。

なお、大和は、日露戦争の時代に海軍連合艦隊がロシア艦隊を破った歴史の延長戦上で造られた艦船だと言われています。当時は、艦船こそが戦争の勝利を決める重要な要素とされおり、大和(及び武蔵)が秘密兵器として建造されるにいたったとのことです。

ところが太平洋戦争の時代のころには、航空機部隊が海の戦いでその勝敗を左右する重要な要素となり、戦艦同士の戦いという構図が崩れ去ってしまった。それゆえ、大和は期待に反して活躍できなかったという部分もあるそうです。

なるほど、今の視点からみれば、航空機に爆撃されるのに、なぜ巨大艦船を資金と人をかけて建造したのか?少し個人的には疑問に思っていました。ただ、歴史の流れからいえば、やむを得ない面もあったのかもしれません。

参考サイト;大和の誕生から沈没まではこちらのサイトです。

大和の沈没時の乗務員による証言はこちらのサイトで。

 

大和ミュージアムは、いろいろと戦争のことを考えさせるミュージアムでした。またもし呉に行く機会があれば、自分なりに戦争の戦いについて勉強したうえで、もう一度ゆっくりと見学してみたいと思いました。

皆さんもメインの1階・2階の展示だけなら、1時間~1時間半くらいで見学できると思いますので、呉方面に行くことがあれば、ぜひ訪れてみてください。

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今西 学

今西 学

大阪の大東市(最寄駅:JR学研都市線の住道駅)で税理士事務所を開業中。(ホームページはこちら) このブログでは、税金・年金・お金の運用など日々の業務で気づいたことや、幼少の頃身体が弱かったことから常に健康で生きていきたいという思いで日々取りくんでいること等を記事にしています。 詳しくはこちら