私の中に根強く残っている阪神大震災という出来事

みなさん。こんにちは。now3のアドレスでブログを更新している大東市の税理士・社労士の今西 学です。

本日は、1月17日。23年前に阪神大震災があった日です。私は当時は28歳で、神戸市役所に職員として勤め、また神戸市の須磨区の職員寮に住んでいました。といっても個人として大きな被災をしたわけではありません。

ただ、やはり私にとっても大きな出来事で、23年たって今もその日のことは記憶に残っています。

だからでしょうか?いつもこの日が来ると、目覚ましをかけて意識的に起きようとしているわけでもないのですが、朝5時46分前には自然と目覚めます。そして、テレビの画面を通してですが、黙祷している自分がいます。

今日も前夜ブログ更新に苦戦して夜更かししたのですが、やはり5時46分前には目覚め、テレビの前で合図と共に黙祷しました。

1.私にとっての1995年1月17日

個人として語り継ぐほどの震災体験をしているわけではありません。でも、今日はその日の事を書きたくなったので、書いてみたいと思います。

はっきりとした記憶はないのですが、その日は5時46分前に目が覚めていたか、あるいは浅い眠りであったかどちらかで、地震が来たときから既に意識があった気がします。

私は大学は筑波大学で、関東に4年間在住していました。関東では地震が多く、何度か震度3や4の揺れも体験していました。だから、その日、地震を感じたときもあまり慌てず、「私は関西人だが、地震には慣れている。大丈夫。いつも通りすぐ終わるはず」と最初は考えました。

私の住んでいた市役所の職員寮は少し住宅地から離れた高台にありました。(神戸に詳しい人ならわかると思いますが「離宮公園」という名所の近くでした。)

よって、地盤がしっかりしているところでした。地震で大きく揺れて部屋の中の机や棚の上の雑誌や物が床に落ちはしましたが、おそらく神戸で揺れの激しかったところで測定された震度7は体験していないと思います。(震度6ぐらいかな?)

大きくは揺れを感じたけれども、恐怖を感じるほどではありませんでした。それより印象に残っているのは、関東で体験した地震はせいぜい10秒もあれば終わったのですが、地震がなかなか終わらなかったことです。

正確にはわかりませんが、1分余り、大きく揺れていたのではないでしょうか?寮に居たので、廊下に出て、他の同僚と顔を見合わせ地震が終わるのを待った記憶があります。

その後、停電でテレビがつかず、また周りに住宅もなかったので、この地震がどの程度の規模なのかは全くわかりませんでした。

今ならネットニュースやツイッターで、情報はとれるのでしょうが、23年前には通話のための携帯電話は持っている人はいても、インターネットによる通信はまだ広まっていなかったと思います。

震災後、震度5以上の地震なら災害関係の職員はすぐ職場に出勤すべしのルールが出来た記憶がありますが、当時はそういうルールもありませんでした。

よっていつも通り8時前に寮を出て、市役所へ向かえばいいと思い、部屋を片付けた後、少し仮眠もしたうえで、いつも通りの時間にスーツに革靴で寮を出ました。(振り返ると恥ずかしいことですが、状況がわからなかったので、お許しを・・・)

寮は、山陽電鉄の沿線にあり、寮から駅へは海側に下っていくことになります。駅まで歩いて12~13分の距離だったのですが、駅に近づくにつれ、被害が大きく倒壊している家が2~3見受けられ、非常に驚きました。

「生き埋めになっているかも知れない」と大声で叫んでいる人がいて、これはすごい被害なんだと初めて少し気付きました。現実ではなく、まるで映画の世界ではないかと。

ただ、まだ完全に神戸全体が損壊している被害とまでは考えませんでした。あくまでこの地区だけの部分的な災害であると考えていた気がします。

山陽電鉄は今から考えれば当たり前ですが、動いておらず、それでもなんとか勤務していた三ノ宮の市役所へ出勤せねばと考えました。そこで約8㎞の距離ですが、歩いて市役所へ向かうことにしました。

途中、住宅地が多い須磨区・長田区を通り、兵庫区・中央区へと進む道です。私の歩いた道は国道沿いだったこともあり、倒壊している木造建物ばかりというイメージは残っていないのですが、道路が陥没していたのは記憶にあります。

長田区を通ったのは、朝9時頃でした。午後から激しい火災に見舞われる長田区もまだ火災に包まれていたわけではありませんでした。ただ、いくつかボヤのような煙が立っているのが見えました。

その時は、「どうして消防は消火していないんだろう」と思っていました。皆さんも既にご存じかと思いますが、水道が完全にやられて、消火活動が出来ない状況であったとは、その時の私は思いつきもしませんでした。

その後、長田区を超えて、神戸の市街地の一番西の兵庫区の新開地周辺にきたときです。ここまで来て始めて、おそろしく大変な災害に神戸が見舞われたことに気付きました。

それはご存じの方も多いかも知れませんが、三菱銀行の倒壊現場を見たときです。この当該現場はよく写真(が取り上げられましたが、他にも周辺に崩壊しているビルがいくつか見受けられました。


「写真提供:神戸市」

それを見たとき、より足を速め、速く市役所へ着かないとという気になった記憶があります。3時間ぐらいかけて、何とか三ノ宮の市役所に着いたのですが、市役所も旧庁舎の上側が完全にぺちゃんこになって崩壊していました。

また、私が当時勤めていた高層の新庁舎も、建物自体は大きな被害はなかったのですが、内部はかなりひどいものでした。重たい書類が入った書棚が倒れたり、大きく位置を変えたりと、庁内はぐちゃぐちゃで、その揺れの激しさを物語っていました。

その時は、文化振興課に所属し、いわゆる現場の部署でなかったので、その日はあまりお役に立てる仕事は残念ながら出来ませんでした。

東灘区にある区民ホールを避難所として開放するので、そこの立ち会いに行くよう命じられ、その日は東灘の区民ホールで泊まり込みました。少し高い建物だったので、夜間に停電で闇に包まれる中、いくつか火事による火柱がたっていたのを覚えています。

2.震災体験について考えたこと・今思うこと

それからが、大変な災害復旧の仕事に携わる日々が始まるのですが、切りが無いので、今日は1月17日のことだけにとどめておきたいと思います。

その日のことで、当時思ったことは、人はあっけなく亡くなってしまうということです。私の家族は神戸にいなかったし、私の周りの市役所職員も幸いなことに命を失った方はおられませんでした。

でも、つい前年の年末までに何度か仕事の関係でおつきあいしていたボランティアの方、よく顔を見せていた金融関係の営業職の方が、震災で亡くなられました。お二人ともお元気で、元気いっぱいの明るさをふるまっていた方だったです。

その当時、仕事でつきあっていた方々の記憶は20年以上も経過し、時と共に自然と薄れてきていますが、亡くなられたお二人のことは、細かい思い出も忘れることなく、今でもよく覚えています。

そのような方が一瞬でこの世からいなくなってしまいました。当時は私はまだ、親族・友人など近くの人が亡くなったという経験をしていなかったこともあり、余計に人間の命ははかないものだというむなしさに包まれたものでした。

そして人の命はいつどうなるかわからないということを強く思いました。

当時よく言われていましたが、もし5時46分ではなく、もう少し時間が経過して明るくなってからの震災だったなら、被害はもっと大きかったであろうと。もちろん、だからよかったという訳ではありません。

寝ている間に、倒壊家屋の下敷きで亡くなられた方の中には、大阪等神戸以外の会社に通っておられる方もおられたでしょう。もしもう少し震災の時刻が遅かったら、家屋は倒壊していても、その方の命は助かっていたかもしれません。よってそこに「よかった」「悪かった」という判断は誰も入れることは出来ないでしょう。

ただ、三菱銀行の建物の崩壊や市役所の旧庁舎の上部が崩壊している現状をみると、もう少し明るくなってからの時刻に起こった震災であったなら、鉄道事故も含めて、もっと死者は増えていたということは事実かもしれません。

私は結果的には大きな被災はしませんでしたが、もし市役所での勤務中に震災が起こっていたら、書棚の下敷きになったり等何らかのケガをしていた可能性もありますし、たまたま倒壊した旧庁舎に居て即死していた可能性もあります。

百年単位の周期で起こる災害からみれば、数時間の差なんて本当に微々たるものでしょう。そういう意味では、人の人生いつ何が起こるかわからないと強く思いましたし、今もそう思っています。

そう考えると、今、生きている幸せも感じつつ、しっかりと生きていかねばと思います。そんなふうに感じた一日でした。

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今西 学

今西 学

大阪の大東市(最寄駅:JR学研都市線の住道駅)で税理士事務所を開業中。(ホームページはこちら) このブログでは、税金・年金・お金の運用など日々の業務で気づいたことや、幼少の頃身体が弱かったことから常に健康で生きていきたいという思いで日々取りくんでいること等を記事にしています。 詳しくはこちら